2021-12-16 客観的に見る、地図、一緒に体験してほしいだけ
15:08
そういえばAがリーダーシップについてのformationを受けている話をしてくれた。
3人一組で行うのだけれど、一人は話し、一人はそれを聞いて彼女がなにを話しどんなふうだったかを描写し、もうひとりは会話をするふたりを観察する。
聞く訓練とともに、自分が何を聞いたのかを正確に、自分の感想を含まずに描写することが目的の柱だったみたい。
もしかしたらAがしていたのはちょっと私が想像していることとは違う可能性があるんだけど…今度までに考えておく。
14:18
フランスに来たばかりの私は、半年くらいは家事も掃除も仕事もほとんどできず家にただ居てなかなか大変だったという話をSに聞いた。何もかも不器用だったことは覚えているけれど、そこまでひどかった?と何度も訊いてしまった。自分の認識と現実はそれほどにズレていたのか。
2014年のことをあまり覚えていないことは確かだ。どれほど自分が擦り切れていたか、それを自分にすらずっと隠し通してきたひずみを認識して、そこから脱しようとするまで3年かかった。
けれど、それでも毎日アパートメントの管理をしたり、Twitterをしたり、写真を撮ったり、最初は色んなところを訪ねたり学校にも通っていたのに。
自分はわりと客観視ができる方、俯瞰もできるし察しも悪くない方だと思っていたのに、実はそうではなかった…思い込みだったのか、必要に応じてかろうじてまとっていた薄い衣のようなものだったのか、とにかく今の私の身にはそれが染みていないということだけは分かって、ときどきがっかりし、迷う。
私は自分の内側、しかも現在から過去に向かった時間軸の中にしか地図をつくることができない。自分のからだの外には目を向けることがどうしてもできない。
例えばSは違う。遠くに目標やビジョンがあって、それに向けて自分を計画する。私は自分の回りは真っ暗だ。10分先のこともよくわからない。裸で飛び込んでうろうろしてそこで経験したことはいつも新鮮なよろこびや痛みを伴う、そして影や匂いのようなものだけをぼんやりと手に握ってまた自分のなかに帰ってくる。明日にそれが生かされることがない。だから明日の、半年後の、1年後の自分を想像できないし、どういう風に自分を成長させていったらいいかもよくわからない。目標がなくて、ただ自分の内側に、広くて深くていろんな色合いの、味わいの、カオスを作り続ける。
外の世界との関係はもちろん大切だけれど、私の場合はそれを自分の中の地図をつくることの媒体としてしか扱うことができない。人との間、未来との間に関係を作ることができることに強い憧れを持ちつつも、わたしはそこに関われるとは思っていない。遠くから湖を見るみたいに、誰かの遠い記憶を見るみたいに、ただそこに現れる反射や反応を皮膚で辿ろうとする。
だからと言って人が嫌いとかいなわけじゃない。
いつまで経っても、そこに切り込むべき自分が準備できない気がしているのかもしれない。
自分がとことんひとりで、誰も何もいない荒野のもっともっと先に行って、ただひとりで自分のことをなんの感情もなくただそのものとして掴んで、それから帰ってくるのでなければ、自分を信用できないのかもしれない。
でもそれは結局、自立しないための言い訳、甘えだ。
生きるために本当に必死になっていない証拠だ。
自分のことなどとっくに確立して、ひとのためにうごく年齢なのに。
…と、また自分のことばかり。
今日の授業の内容を考えることにしよう。
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ふと考えたことを『悪童日記』の本の感想のところにもメモ。 私は、アパートメントや今やっているアドベント日記企画を、ただ「あたたかくやさしいもの」にしたいとは全然思っていない。 もちろん、私はそうは思っていないけれど、そういうものとして受け取ってもらえることはそれはそれで嬉しい。
誰かが作ったものは、誰かに手渡された途端にその人が見たいものになる。
私は、そのひとの鏡となるものをそこに置きたい。
鏡を見ることで誰もが自分の立っている足元を確かにし、改めて周りの景色を見渡すような時間になる、そんなことに興味がある。
こういう風に見てほしい、感じてほしい、というのぞみは私の側にはない。そのひとのと鏡の間に浮き出てきた世界や、対峙するような時間そのものに興味がある。
本当は自分の踊りがそういうものであれたら良いのに、でも毎日踊りを見てもらうわけにはいかない。それに私が置ける鏡の大きさには限界があって、私だって誰かに鏡を置かれたい。